舞台の情報 観劇記録 感想  そして戯言


本日はご来場いただき まことにありがとうございます

このたび 別ブログに掲載していた劇評もこちらにまとめました
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「ポツネン氏の奇妙で平凡な日々」
JUGEMテーマ:演劇・舞台

「 工芸品のようなコントの世界 」

                     日時:2015年 9月 5日 13:00〜    場所:  西鉄ホール


 小林賢太郎のソロ公演「Potsunen」は2005年にスタートし、以後ほぼ毎年公演を行っている。再演や改訂版などもあるが、今回の作品は10年目にして7作目の新作といえるだろう。
 ポツネンも回ごとに変遷をしてきた。最初の頃は、簡素な舞台でセリフが多く、ストーリーもあり、演劇の短編集的な舞台であった。その後、舞台装置が凝ったものになっていき、書斎机や本棚の周りには小林のセンスが活かされた小道具がびっしりと並べられていた。
 そして今回の公演。舞台装置はほとんどない。舞台には6枚の四角いパネルがあるのみ。パネルには様々な映像が映し出され、滑車が動いたり組み立て物が形になったりと、舞台装置の代わりとなっている。しかも映し出されるイラストはどれも小林自筆のもので、彼独特のセンスの世界へ引き込む助けとなっている。これまでも映像は多用していたが、今回はさらに多くなっていたようだ。時々立方体の箱が出て来てそれを利用するところは、ふとラーメンズ時代を思い起こさせた。
 セリフもほとんど無く、時々発せられる声は擬音や感嘆符のたぐい(「ん?」「あーっ!」など)。スクリーン映像で使われる文字も、日本語でない不思議な文字だ。日本語で表すことを極力避けようとしたようなこのような構成も、舞台装置が簡素なことも、海外公演を見越し、世界中の観客に見せることを考慮してのことかもしれない。(この作品も海外公演を行っている(2015年2月)とのこと。)

 ストーリーは、ポツネン氏が光る昆虫らしきものを捕まえるのだが、家で育てるうちに大きくなり、白くて丸い不思議な生き物となる。それをペットとしてかわいがりながらも、不可思議で奇妙な出来事に遭遇していく。一緒に過ごした白い生き物が、最後に現した正体は・・・?

 毎回感心させられるのだが、小林の舞台は実に緻密である。小林が隠れるタイミング、出て来るタイミング、物を落としたりキャッチしたりするタイミング。舞台の計算し尽くされた構成や、細部まで描き込まれたイラストは、すべてに小林のこだわりが感じられ、それを愛し形にするスタッフの意気込みも感じられる。0.1秒のズレも0.1mmのミスも許されないで仕上げられており、まるで手の込んだ工芸品を見ているようだ。しかしそこには笑いも散りばめられているので、決してよそよそしかったり堅苦しかったりはしない。また、小林の手品やパントマイムの技術もプロ並みであるため、驚かされたり感心させられたりするシーンも多く、楽しい。さらに、おなじみの徳澤青弦の音楽が、個性的ながらも何となく物悲しいノスタルジックな雰囲気で、観客の気持ちをざわざわさせる。
 演劇のようでもあり、パントマイムショーのようでもあり、手品のように騙される快感もあり、美術品を鑑賞するような雰囲気もある――コント。
 緻密で美しくハイレベルでありながら、安心して笑える。この心地よい空間は、なかなか他では味わえまい。

 ポツネン公演も10年となり、小林の母体であるラーメンズの活動と同じくらいの歴史を刻むに至った。ラーメンズは現在は活動休止中であるが、ポツネンというシリーズ世界への創作意欲、そして小林が自分らしさを表現する場としての意識は、ますます膨らんでいるように感じられる。ここ数年、海外での公演も行っており、この先ポツネンの世界がどこまで広がり深まっていくのか、期待を持って見守りたい。まだまだ見た事の無い世界を見せて、楽しませてくれるに違いない。   【終】
| 13:04 | 劇評 | comments(0) | trackbacks(0) |
町田樹 『第九』の功罪
これは演劇関連のことではなくて
私のもう1つの趣味・フィギュアスケートに関することを書いた文章です。
劇評ではないですが、評文としてまじめに書いたものなので
私の執筆の記録として、こちらにも上げておきます。
言い訳や説明は文末に(笑)


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「 町田樹 『第九』の功罪 〜1フィギュアスケーターが目指した境地〜
 
 今シーズン、町田樹はフリープログラムの演目としてベートーヴェンの『第九交響曲』を選び、自ら「シンフォニック・スケーティングの極北」とテーマづけた。「シンフォニック・スケーティング」とは、クラシック(あるいはモダン)バレエの1ジャンル「シンフォニック・バレエ」から由来したネーミングである。
 シンフォニック・バレエとは、音楽そのものをバレエで表す作品のことであり、『白鳥の湖』や『くるみ割り人形』等のように物語を演じる作品ではない。同様に町田も、音楽そのものをフィギュアスケートで表そうという挑戦をしたわけだ。男子フィギュアスケートにはこれまでもストーリー性がない音楽で踊る作品はたくさんあったが、それはいわば「ダンス」のジャンルであった。町田は「バレエ」を作品の根幹に据えて取り組んでいることが異質であるし、またその取り組み方へのこだわりの強さも異質である。
 もともと表現することが好きで、表現力を自分の長所の1つと自覚していた町田だが、転機は3年前に『火の鳥』を振り付けてもらったフィリップ・ミルズとの出会いと言えるだろう。バレエ界出身のミルズに町田は大きな薫陶を受けた。その証拠として、リンクに入ってから出る時までを1つの作品として演じるべきという教えに従った町田は、『火の鳥』を演じる時、リンクインの瞬間から鳥のように羽ばたき、演技後のお辞儀も鳥になりきってみせた。最初はその大仰な仕草に失笑さえ漏れたこのような行動も、町田の演技と世界観が確立するにつれ彼独特の当然のものとして見られるようになった。2年後、世界選手権『エデンの東』でのお辞儀などは、世界の実況がバレエダンサーのようなその優雅さに感嘆さえしたのだ。
 舞台芸術、総合芸術としてのフィギュアスケートを目指した町田は、ソチ五輪のシーズンの演目『エデンの東』でほぼそれを完成する。町田の芸術的スケートに世界が注目したのは、しかしその美しい動きだけではない。世界屈指の成功率と美しさを持つ4回転ジャンプをはじめとした、高い技術力だ。男子選手がとかく技術の向上と点数のアップのための技開発に力を注ぎ、作品全体の流れは二の次にしがちなのに比べ、町田は世界トップレベルの技術を入れたうえで表現にこだわった。4回転ジャンプですら点数のためではなく表現のため、観客の心を一気に惹きつけるための手段と捉えた。結果、プログラムは芸術作品となり、観客は見終えた瞬間総立ちとなる。町田というスケーターを知らなくても、その演技は心に刻まれることとなる。
 そのような領域にまで技術と芸術性を高めたフィギュアスケーターである町田が、「シンフォニック・スケーティング」と銘打ってベートーヴェンの第九交響曲に取り組むと言う。聞いただけでも期待は高まるが、町田はさらに、初戦であるスケートアメリカまでプログラムの一切を秘密にした。いわく「舞台や映画を制作途中の中途半端な状態で見せることはしないでしょう?」
そして舞台作品の初日よろしく、スケートアメリカでのワールドプレミア(世界初披露)を行った。いまだかつてこんなやり方で試合にのぞんだ選手がいただろうか?しかも圧倒的な演技で他選手に大差をつけて金メダルに輝いたのである。
 町田はまず、ショートプログラム「ヴァイオリンと管弦楽のためのファンタジー」を美しくパーフェクトに演じ、高得点を出した。そして翌日、まばゆくきらめく深いブルーの衣装でリンクに現れた。(衣装から音楽の構成にいたるまで町田は全てに要望を出し、その理想が反映されているのだという。)
 冒頭約20秒間の静止。力強い音楽とともに演技が始まり、4回転ジャンプを2回成功させる。美しいバレエ的なポーズを随所に散りばめて、慈しむような穏やかな曲調に乗せたステップが続く。後半には休むことなく詰め込まれたつなぎの動作とたたみかける高難度なジャンプ。『第九』の合唱が荘厳な演技を後押しする。残念ながら後半のジャンプは決まらないものもあり、未完成と言わざるを得なかったが、それでも完成形がもう目に見えるような出来であった。

 
 

 
 
 
 
 
 
 
 

 
 この美しく壮大で高難度なプログラムが完成した暁には、誰もが立ち上がって喝采し歓喜の涙を流すだろう。その時、フィギュアスケートの世界の新しい扉が開かれ、見たことのない世界を見せてもらえるのではないか。間違いなくそんな予感がしたワールドプレミアだった。

 しかし、残念ながらその扉が開かれることは無かった。町田の『第九』はその後の試合を経てもついに完成には至らず、しかも町田はシーズン途中で突如引退してしまった。
 引退については様々な事情があろうから、ここで言及することはしない。ただ確かなことは、目の前の大きな扉――「芸術としてのフィギュアスケート」という誰も開けたことがなかった重く大きな扉を、ほんの少しだけ開けてくれ、その向こうにあるまばゆい光を見せてくれた『第九』という作品は、もう演じられることはなく、扉はまた閉じられてしまったのだということだ。『第九』が完成に至っていたら、扉の向こうの光の世界を見ることができたかもしれない。もっと言えば、『第九』を完成させて扉を開いたうえで、さらにもう1つでも2つでも、至高の作品を味わわせてもらいたかった。町田にならそれができる、いや、彼にしかそれはできないと思うがゆえに、扉が閉じられてしまったことが残念でならない。大きな失望感、喪失感を抱いて扉の前に立ち尽くしている人は大勢いるのではないだろうか。
 実際、町田の引退を惜しむ声はスポーツ界、フィギュア界だけでなく、文化・芸術方面からも多く寄せられた。こんな人がフィギュアスケートに関心を持っていたのか?と思われるような人からのコメントが多く聞かれたのだ。それは町田の取り組み方や思想が、ジャンルを超えて興味を持たれていたからであろう。このようなフィギュアスケーターもまた、他に類を見ない。
 この「芸術としてのフィギュアスケート」という大きな扉を、再び開けてくれる選手は現れるのだろうか。町田ほどの高い志と高い技術を持って、扉に手をかけるスケーターが。我々はそんなスケーターが現れるまで、町田の『第九』の時に見たまばゆい光を忘れられずに、ここに座り込んで扉を見上げるしかないのだ。            【終】



*********************************

この文章は、町田樹選手が引退した時(2014年12月)に
このシーズンのフリープログラム「第九交響曲」という作品がもう演じられないことと、
町田選手が当分スケートをしないだろうと思われる絶望的な状況に対して
彼の取り組みの作品のすばらしさをどうにかして残しておかなければいけないという気持ちが抑えられなくなり
一気に書き上げたものです。
私は劇評を書く練習をしていましたので、その手法で、
作品のすばらしさと取り組みの意義深さを伝えることに主眼を置き、なるべく客観的に書いたつもりです。

実際は、町田さんはこの4ヶ月後にショーに復帰し、さらにすばらしい作品を披露してくれたので
この時の喪失感は払しょくされたわけですが
当時、自分がどれほどの思いだったかという記録として、
また、町田選手のラストシーズンについてそれなりにまとめた記録として、
ここに残しておこうと思います。

町田さんはフィギュアスケートを芸術として捉え、氷の上を舞台として演じておられるので
ここは演劇関係のブログではありますが、それほど的外れな内容ではないと信じ、掲載いたします。

 
| 13:44 | 劇評 | comments(0) | trackbacks(0) |
14+ 「3人いる!」
「 脚本を超えて、もっと独自色を 」

        
日時:2010年12月25日  14:00〜     場所: 博多扇貝



14+は、近年演出家としての活躍が注目されている主宰の中嶋さとが、既成の脚本に演出をつけ上演するという形を取ることが多い劇団だ。今回は、多田淳之介(東京デスロック)の作品に挑戦している。
 舞台は一人暮らしの男(小塩泰史)の部屋。脱ぎ捨てた服やマンガ、文房具などが散らばっている。その部屋に別の男(手島曜)が入ってくる。彼はここは自分の部屋だと主張し、お互いに「お前は誰だ」という騒ぎになる。話を聞きあううち、どちらも本人であることがわかってくる。自分しか知りえない個人的体験、記憶、友人の話、すべて間違いなく自分である。では自分は2人いるのか? そのうち1人が分裂する。突然女性(朝長舞/中嶋さととWキャスト)が1人入って来て男に重なり、視覚的には2人となる。だが話の内容は1人分。2人で1人を表現しているのだ。次第に、それぞれが分かれたり別の人とくっついたり、今度は1人が2人に分裂したり・・・ということが繰り返され、エスカレートしていく。組み合わせや会話が脈絡なくめまぐるしく変わる。

存在とは、そのほとんどを視覚に頼っていることを強く自覚させられる。目で見えていることを否定され混乱させられると、何がどうなっているかわからなくなる。いったい今、誰がどれで何人いるのか。今言っているセリフは誰のセリフなのか。そうとわかった瞬間また変わり、またわからなくなる。そんな風に、脳をかきまわされる混乱と不安感がめまいのように襲う。
非常におもしろいテキストであり、その内容には魅かれたが、それは作者である多田淳之介の手柄である。この公演で求められるのは、舞台作品としてのおもしろさだ。中嶋が脚本をどう料理して舞台に乗せるか、「14+」色がどのように出ているか。そこに中嶋があげるべき手柄があるはずだが、残念ながらそれが見られたとは言い難い。こういうお話かぁという感想は残ったが、演出や解釈にハッとさせられる点があったかというとそれは無く、淡々と役者のエチュードを見せられているような感じであった。服装も全員黒、舞台も黒。雑然と散らばった服や本などは、一人暮らしの男の部屋を描写したのみであろう、特に何の工夫もない。音楽もほとんどない。デスロック公演をコピーしたのだとしたら、その必要はないだろう。
もっと観客を混乱させる、ぞっとさせることができるはず。特に友人の家へ行ったシーンで、最初とまったく同じシチュエーションが繰り返された時など、演出の技量の見せどころではないか。
東京でしか見られない注目作品を上演するのは、意義のあることだが、ただそれだけの劇団になってもらっては困る。奇をてらえとは言わないが、独自の味にアレンジする思い切りが欲しい。この思いは私は以前から持っていて、そのうち変わっていくのではと期待しているのだが、逆にだんだん勢いがなくなっていくような気がして残念だ。

役者陣は相変わらず安定した技量。今回がデビューという朝長も、演技力を評価しにくい作品ではあったが他2人に遜色ないレベルではあった。
【終】
 
| 14:11 | 劇評 | comments(0) | trackbacks(0) |
イキウメ 「図書館的人生vol.3 食べもの連鎖 〜食についての短篇集〜」

「 生きること、摂取すること 」
        
     
日時:2010年11月23日 14:00〜   場所:西鉄ホール



 私は以前、前川知大について「本当に異界と交信できるのでは?」と書いたことがある。今回思ったことは「異界に住む親しい友人が何人もいるに違いない」ということだった。まさに彼の書くものこそ『奇譚』であろう。
 この作品は『図書館的人生』シリーズの3作目。このシリーズは毎回のテーマに沿った短篇から成る作品で、今回は4つの短篇から構成される。『食についての短篇集』という副題のとおり、4つの短篇それぞれが「前菜」「魚料理」「肉料理」「デザート」と位置付けられている。
 1話目:前菜は、料理教室に通う女が菜食主義にかぶれていく話。女(岩本幸子)は、料理教室の講師橋本(板垣雄亮)に心酔し、肉を一切食べない「菜食」を貫くようになる。彼女の夫(浜田信也)はふつうに肉を食べたい人。女はそんな夫に菜食を強要せず、だんだん慣れていったらいいという態度で料理を出していた。しかしある時、夫が肉だと思っていた料理は、2週間も前から植物性のグルテンで作られたものであったことがわかる。いわば突然裏切られた夫は、何もかも信じられなくなり、叫んで発狂したように飛び出していく。
 2話目の魚料理は、1つだけ趣の異なる作品だ。万引きのプロである畑山(安井順平)。彼は万引きで生計を立てているが、必要なものしか盗らない。面白半分や手当り次第の万引きをする素人とは違うプロの万引き屋だ。一方、懸賞で当てたものを売るなどして生計を立てている女、梅津(賀茂杏子)。「美学」とポリシーをもってことに向かっている姿に共感した畑山は「オレはお前を理解できる。オレとつきあえ!」と言って女の部屋に住みつく。女はノーと言い続けるが、同種の人間として理解しあいながら奇妙な同居生活が続く。あるとき、畑山は家電などの大物を万引きする天才万引き屋 平雅(緒方健児)に遭う。彼は愉快犯で、手当り次第盗っていき、そのせいで多くの店がつぶれていっている。畑山はそんな万引きはやめるよう説得を試みるが、とりつくシマがなく、ついに店員に密告――つまり同業者を告発するというタブーを犯す。
第1話で料理教室の調理台であったテーブルが、スーパーの商品棚として縦に並べられ、その間をカートを押しながら買い物客が幾何学的に動く。時には並んで止まる。無表情で整然とした動きの中、万引き犯たちだけの時間が別次元で流れているように見えた。演出の妙であったと思う。
第3話目は肉料理。レアでボリュームもたっぷりだ。
主役は、第1話の料理教室で講師をしていた橋本(板垣)。彼は本当は115歳であると、取材に来たカメラマン(浜田)に言い、その数奇な人生を語り始める。
橋本は体調を崩したことがきっかけで、あるとき血液を飲んでみた。最初はひじょうにまずいし、倫理的に抵抗もあったが、続けていくうちに肌つやが良くなり若返っていることに気付く。「飲血」がやめられなくなった彼は、医師の友人の協力で、血液を入手しながら飲血を続ける。そのうち若返った橋本を見て、妻も血を飲むようになった。二人で若返って幸せに暮らしていけるかと思われたが、ほころび始める。何より血を飲むことしかできない、食べ物を食べられない体になっていることが苦痛である。妻はある日、つのる食欲についに耐えきれなくなり、大量の食べ物を食べた後に血を吐いて死んだ。
そんな苦しみを抱えながら血を飲んで生きていた橋本だったが、ある時飲んだ血の味が初めて感じたものであった。それはベジタリアンの血液であり、その味が忘れられない彼は、提供者の女性(伊勢佳世)を探しだす。献血だとだまし、彼女の血を採って、採血管から直接それを飲もうとする橋本。静謐で恐ろしく、なぜか淫靡さも漂うシーン。板垣の凍りつくような演技に息をのむ。
橋本のしていることを見てしまった女は最初おびえるが、なぜか理解した。彼女は橋本を生かすために自分の血を提供するようになるが、量が足りない。そこでベジタリアンの血を確保するために、二人で菜食料理教室を開く。
飲血をする様子、続ける苦痛、その効能と副作用。どれも作者が体験してきたようにリアルで、気がつくと「そうか、血を飲み続けると若返るんだ・・・」などとふと信じてしまっている自分がいる。あぶないあぶない、そんなことあるわけない。こんな、ありえないけれどもしかしたら・・・と思わせるのが、前川知大の世界だ。不気味でありながらおもしろく、しかも見てはいけない部分を一瞬のぞいたかのような軽い罪悪感まで憶えてしまう。
橋本は言う。「私はただの寄生虫だ。食物連鎖の中に私はいない。ここまでして生きる理由が見つからない」。何を摂取して生きるのか。それは何のためか。元気なこと、若いこと、それはすばらしいが、どれほどの努力や犠牲を払ってその状態を維持しても、それは「生きる」ということなのだろうか?
 ・・・などと複雑なことを考えるのもいいが、異界への小旅行をただそっと楽しんでくるのが一番かもしれない。田舎のお年寄りのふしぎな体験談を、夜にいろり端で聞くように・・・・。
                                                      【終】

 
| 23:40 | 劇評 | comments(0) | trackbacks(0) |
F's Company 「ワレラワラルー」 
「 ストーリー以外の曖昧さ・創りの甘さは惜しい 」

        
日時:2010年12月12日  14:00〜     場所:ぽんプラザホール


 劇場に入ったら、舞台が組まれていなくてちょっと驚く。ホール中央の床が演じる場で、その両側に階段状に客席が設置されている。中央のフラット部分の突き当りには、両方に緑色の金網で作られた扉付きの出入口。ここはワラルーの飼育場なのだろう。ワラルーが逃げ出さないように、出入口にああして金網が施してあるのだ。ワラルーはカンガルーの小型の動物であるという。客席の前には低い緑色の柵があり、動物園の「カンガルー広場」みたいな雰囲気がよく出ている。開演10分前になると、4匹のワラルーが現れ、飼育場で思い思いに過ごしだす。耳のついた茶色いフード付きマントで扮した役者たちである。寝そべったり、他のワラルーと顔を近づけてみたり、立ち上がって入場してくる客を凝視したり。飼育員が出入口の脇でそれを見張っている。パンフレットもまるで動物園の園内マップだ。ここまで凝ったオープニングから、舞台は始まる。
 ただし、動物の世界を題材にしているという設定を除けば、ストーリー自体はあまり目新しいものではない。悩みを抱える少女が、友人の理解や母の死によって、精神的に成長するというのが大枠の話だ。物語も、静かに落ち着いて進んでいく。(作・演出 福田修志)
 最初にワラルーの親子が会話するところは、動物なりきりごっこのようで、動物を人間が演じるのはやはり難しいなと思った。ただ、親子ゲンカをしながら客席に向かって「じろじろ見てんじゃねー!」と父親が怒鳴ったのはおもしろかったし、チンピラみたいなカピバラにも意表を突かれて笑った。
暗転を一度も使わず、ワラルーのマントを脱いだり着たり、あるいは相手に着せかけたりすることで、人間になったり動物になったりの変化を見せる手法はおもしろい。マントだけを持っていくことで、ワラルーを連れていったことを表現したり。そのマントの脱ぎ着が、後半あったりなかったりするようになり、人間なのかワラルーなのかが曖昧になってくる。たとえば、ワラルーの子ども役の二人が、飼育体験の女子高生二人も演じているが、この設定がだんだん混ざりだぶっていく。彼女たちはワラルーになった夢を見たのか。あるいはワラルーが人間になった夢を見たのか。
後半、ワラルーのお母さんハイジが倒れる。一人の飼育員は自分のせいだと落ち込み、死んだら解剖するということに対して激しく反対する。かわいがっていたのはわかるが、動物園では生死と向き合うのは日常的でいわば当然のこと。あそこまで抵抗するのは少々不自然ではないか。
また、ところどころに見られた造形物の稚拙さが気になった。ワラルーのマントはあれくらいでもいいかもしれないが、たとえばカピバラさんの鼻が壊れてしまったりした。ただ、あそこは笑いどころでもあるし、壊れたことをネタとして利用してもおかしくない。興がそがれたのは、解剖したときに取り出した内臓だ。ハイジの体の中から1個1個内臓が取り出され並べられて行くが、これが小さな手芸の手作り品のようなもの。こんなにシリアスで重要な場面なのに、「ん? 笑うところ?」と思ってしまった。あの取り出したものが、(小さくても)もう少し凝った造りで重みのある造形物だったら、あるいは不思議に光り輝くようなものであったら、舞台の緊張も途切れないのではないのだろうか。飼育員が解剖にあれほど抵抗し、倒れた後も獣医師と飼育員が必死に看病した、揚句の解剖シーンである。隙を見せずに作って欲しかった。
最後に小さなノートがハイジの体の中から出てくる。ワラルーのお父さんから受け継いだ、大事なことがメモしてあるノ−トだ。もらわれて来たりよその動物園へ行ったりする、本当は血のつながらないバラバラなワラルーのメンバーを、家族としてつなぎとめる記憶であり、遺伝子であり、受け継がれるものの象徴。このノートは今度は、ワラルーの子どもが受け継ぐのだろうが、そんな展望が見えてもよかった。
オリジナルの音楽が心地よく美しい(柴田健一)。作品にもよく合っていたと思う。また照明(友永貴久)もいつも通り幻想的で綺麗だ。ただ舞台は、前方に普通に組んだ方がよかったのではないか。ワラルーが近づいてくるのは楽しかったが、その他は少し離れて見たいという欲求を覚えた。
【終】
 
| 23:30 | 劇評 | comments(0) | trackbacks(0) |
「義務ナジウム」九州戯曲賞佳作作品 リーディング公演
「義務ナジウム」 (九州戯曲賞 佳作受賞作品)
  
           
日時:2010年10月16日       場所:大野城まどかぴあ



 今年2年目を迎えた九州戯曲賞。今回は大賞に該当する作品がなく、河野ミチユキ氏(熊本、劇団ゼロソー作・演出担当)の『義務ナジウム』が佳作を受賞した。
この賞の受賞作品の周知として、大野城まどかぴあではリーディング公演を開催している。賞を与えるだけでなく、その作品を広く紹介しようとする取り組みは評価に値する。しかし観客数がもう少し多いとよかった。この戯曲賞がもっと認知され、それとともにリーディング公演にももう少し客が入るようになっていくことを願う。
さて、受賞した河野氏は、所属する劇団ゼロソーで、空気感を大事にした繊細で情緒あふれる舞台を創り出すと定評があるそうだ。また近年は「コミュニティーの歪みに焦点を当てた作品」(リーディング公演上演パンフレットより)を創っているとのことで、今回の作品でもそのスタイルが強く感じられた。
九州の山奥にある美女都(みめと)町。女性の多いこの村には、昔から伝えられる村独自の風習があった。14才になると男女ともに、村の大人たちによって性的関係を体験させられるのだ。俗に言う「筆おろし」であるが、それがいわゆる元服、大人になる儀式ということで、秋の祭りの日に秘事として行なわれる。この作品は、その秋祭りを迎える数日間を描いた話だ。
現代という時代において、この村も外部から客が来たり嫁をもらったり、近隣町村との関わりを持たざるを得なくなったりしている。その中でこの風習・この考え方を守るべきかどうか。14才の子供たちだけではない。代々続く家に嫁いだ女は、夫の父や兄弟とも関係を持つ。子孫を残すためだという。「みんなこれを繰り返してきたんだもんね」そう思ってあきらめ受け入れている。
周囲から隔離されたような小さな集落には、独自の因習が残っていることがよくある。ずっとそうしてきたからと続いている、その「人には言えない、見せられないようなこと」が、社会的に明らかになりそうな時、その集落の人々は何を思いどうするのか。非常におもしろい着眼点であり興味をひかれるテーマだ。方言を多用し歴史や伝説を散りばめることで、九州の山奥がなんとなく想起される。
また構成も巧みである。なんとなく想像はつくが、確証が持てないこの村の秘密。親密すぎて複雑化している人間関係。それらがもどかしいほどゆっくり明らかになってくるので、後半までじりじりとした気分が続く。
ただ、見終えた後の印象としては、非常に狭い世界の話であり〈閉じた感じ〉がした。テーマはたしかに面白いが、普遍的なものとして投げかけるには、もう少し工夫が必要かもしれない。たとえば、昔からのしきたりとして村民はそれに従って生きてきたのだろうが、なぜそうしなければならなかったのか。そうまでして守ってきたものは何で、それはこれからも守らねばならないのか。しきたりを破る恐怖があるなら、その理由と描写が必要だろう。それを破ろうとして何かひどい目に遭った、等である。これがはっきりしないために風俗的興味の色が強くなり、その裏側にある「そうせざるを得なかった理由」が薄れてしまっている。「女ばかり」の村であることや、伝説の神木「乳銀杏」について等、肝心なキーワードについても漠然としか触れられておらず、詰めが甘いように思った。
 ところで、この作品で私が一番感動したのは「美しいト書き」であった。役者が演じる普通の公演では、ト書きに書かれていることは舞台から感じるだけのものであり、その文章に触れることはできない。リーディング公演はト書きも朗読してくれるので、この作品のト書きが実に美しい文章で綴られていることが聞き取れた。このような点からも、リーディング公演は戯曲作品の紹介に適していると言えるだろう。
このリーディング公演の演出は、グレコローマンスタイル主宰の山下晶氏が担当した。「可能な限り『おと』だけでこの作品の世界観を伝えたい」(パンフレットより)ということで、桃を食べるピチャピチャという音、ミミズクの鳴き声や羽音などを強調し、淫靡な印象や山奥の雰囲気をよく出していたと思う。また、舞台下手に設置された階段が、神社を出入りする人とその心情を表現するのにうまく活かされていた。
 
また来年以降もこの九州戯曲賞に、すぐれた九州色の濃い作品が多く応募され、次は「大賞」受賞作品のリーディング公演で、新鮮な感動に出会うことができることを期待している。
                                                      【終】
 
| 14:20 | 劇評 | comments(0) | trackbacks(0) |
九州・福岡演劇祭公演 「夏の夜の夢」
「福岡の若い演劇力が集った祝祭」

           
日時:2010年8月29日  18:00〜     場所:ぽんプラザホール


鳥のさえずりと(もや)に包まれた森の中に、白い屋敷が立つ。遠くに見えるペーパークラフト調の町並みがきれいだ。3人の職工が現れ、面白くおしゃべりをしながら物語へと導くが、口上の最後に観客に一本締めの協力を頼む。舞台上の3人と観客全員とが「よォーッ、ポン!」と手を叩くと同時に暗転。舞台が始まる。
 九州・福岡演劇祭の企画として、福岡で活動する俳優・スタッフが所属を越えて集まり創り上げたプロデュース公演。シェイクスピア作品を、設定は原作に忠実に、セリフやテンポは現代的にうまく脚色。わかりやすく楽しい元気な舞台に仕上がっていた(脚色:川口大樹)
 まず目を奪われたのが衣裳である(白浜佳月永)。すべて手作りのように見えたが、豪華で美しく、デザインや色、細部へのこだわり、役柄によるバランスも計算されてある。福岡の小劇団公演でここまでクオリティの高い衣裳を見たことがなかったので驚いた。他にも、よくできた小道具(中島信和)やメイク(橋本理沙)、幻想的で美しい照明(荒巻久登)など、堅実なスタッフワークが作品を充分に支える。
 役者陣はどの人も魅力的で演技力にも不安がない。最も印象的だったのは、妖精の王妃タイターニア(濱崎留衣)。アメリカコメディー映画の奥様を見ているようで、貫禄がありながらもかわいらしかった。最も有名な役と言える妖精パック(杉山英美)は、ハツラツさが良かったがずいぶんしっかり者の印象。あまりいたずら好きな感じがしなかった。また、恋人たちのうち男性2人(林雄大、大澤鉄平)の美男ぶりには、登場からハッとさせられたほど。町の職工を演じた6人は、そのうち3人が女優でたいへん芸達者ではあったけれども、あれは全員男優の方が良かったのでは。
 実力と魅力が備わったメンバーが集結したからこその充実した舞台だったが、このような企画が定期的にあったらと思った。この企画に出ることが、役者にとって栄誉やステイタスだというレベルになり、これを目指して役者たちが研鑽を積むようになったらいい。参加できればふだん自分たちの劇団ではできないような舞台を創れるし、異劇団のメンバーとのジャンル・年齢・経験を越えた交流と刺激を得ることができる。それが役者たちの意識を高め、実力を育てていくはずだ。実際今回の舞台を見て、次回またあったら自分も出たいと思った役者は多いのではないだろうか。作品も有名な古典を選んだことで、幅広い観客にも楽しんでもらえただろう。若い演劇人に、古典や名作に取り組む場を与えるのも非常に意義のあることだと思う。このような企画の今後の継続と発展を、一観客としても期待したい。
 舞台のラスト、役者が全員登場して「お気に召さずばただ夢を、見たと思ってお許しを」という有名な口上を述べると、一気にシェイクスピアの香りが漂う。その直後、「よォーッ」と一本締めの構え。観客全員が忘れずに一緒に手を叩き、舞台はその拍手(クラップ)とともにフッと消えてしまった。朝になり夢が終わるように、幸せで華やかな余韻を残して。                                                    【終】



この劇評は、九州・福岡演劇祭劇評賞に応募して、入賞いたしました。
選者・扇田昭彦先生からの評をいただきましたので、併せて掲載しておきます。
詳しくは公式サイトへ
 → http://10kinen.info/pr_works/critic.php


《選評》
(観世)さんの文章は、内容的により突っ込んだ劇評です。衣裳に詳しく触れ、俳優たちの演技を論じ、部分的に批判も加えています。今回の公演の意義をきちんと語っているのも評価できます。ヒポリタの人物像の変化については具体的に触れていませんが、「セリフやテンポは現代的にうまく脚色」という表現がそれを暗示しているのかもしれません。ただし、この劇評の弱点は、舞台作りの中心である「演出」にまったく触れていないことです(文中に演出家・後藤香さんの名前も出てきません)。

 
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